鎖国の授業について

昨日講座で取り上げた鎖国の授業は平成15年(2000年)頃つくったものです。15年前ですね。今では私の授業の内容はネットでは当たり前の情報になっていますが当時はそういう本はほとんどありませんでした。

 鎖国は国を閉じて閉じこもってしまった愚かな政策と教えられていました。そして「キリスト教を禁止して弾圧した幕府はひどいなあ」「残虐だなあ」という感想を持たせる授業がほとんどでした。教科書は今でもそういうイメージで書かれています。
 これはおかしいんじゃないの?というわけで、鎖国を日本の安全保障問題として考えさせる授業を作りました。

 わが国は7世紀に仏教を取り入れて日本の神々と共存を図り、統合してきました。文明宗教の流入に対して土着の神々滅ぼさなかったのは世界史の中でわが国だけです(聖徳太子の文化戦略)。

 およそ1000年後に今度はキリスト教(カトリック)が入ってきました。秀吉はまずこういう法令を書きます。

1 キリスト教の信仰は「各々のはからいに任せる」(個人の自由だ)
2 大名が領民にキリスト教を強制してはならない。神社仏閣を破壊してはならない。(キリシタン大名が徹底的にやっていました)
3 日本人を奴隷として南蛮人に売ってはならない。

 第1条は寛容な日本文化の継承ですね。秀吉は7世紀の聖徳太子と同じように今回も共存がはかれると考えたわけです。
 ところがこの1条と2条に身近にいたキリシタン大名(高山右近など)やバテレン(宣教師;コエリョなど)は大反対しました。

「殿様、それではダメです!日本人全部をキリシタンにしなければダメです。世界に正しい神は一つだけです!仏や日本の神々は邪教なのです。邪悪な信仰は滅ぼさなくてはなりません。そうでないと民百姓は天国に行けません」

 秀吉はこうしてカトリックとは「一神教」というわが国の伝統文化とは相容れない極めて異質な排他的な文化であることを理解しました。そこで有名なバテレン追放令を書くことになります。
 しかし、バテレン追放令はキリスト教の布教は禁止しましたが、信仰の自由はまだそのまま残っていました。南蛮貿易も続けているのでバテレンは追い出してもまたやってきてキリシタンは増え続けることになります。

 こうして、秀吉の課題「西洋とどうつきあうべきか」問題は江戸幕府に引き継がれ、島原の乱で最終結論が出るまで引きずることになりました。
 地球規模の侵略者たちと対等以上に渡り合い、日本中心にルールを決めていた当時の日本。そんなことがなぜ可能だったのでしょうか?
 それは当時の日本が世界一の重武装軍事大国だったからですね。

 ちょっと長すぎました。興味のある方はぜひ本を注文してください。
 実は、昨日の講座の感想文を一つ紹介したかったのでした。

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 秀吉のバテレン追放令に賛成したのは、バテレンを日本に残すと彼らの命をムダに殺すことになりそうだと心配したからでしたが・・・。
 スペイン人船長の話(キリスト教を広めるのはその国を植民地にするため)を聞いて、私はなんてのんびりしたことを言っていたんだろうと思いました。

 ザビエルの布教のことを戦略(?)としてこれまで考えたことがなく、島原の乱も踏絵も「そこまでしなくても・・・」と考えていましたが、「国を守る」ということを真剣に考えることは、人を疑う視点も持たなくてはならないし、時には非情にならなくてはいけないし・・・しんどいことだなあと改めて感じました。

 歴史を表面的にしか知らないと、やがて過去の日本人がやってきたことを「ひどい」とか「極端」とか考えてそのまま覚えてしまう。そのときの状況を正しく知り、「そうするしかなかった」という「納得」が歴史の理解にはとても大事だと改めて感じました。(H/T)

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 この先生は小学校の担任で女性です。第1回から3回連続参加で皆出席をめざしていらっしゃいます。感想もおざなりでなく、いつも内容に踏み込んだ深いもので、ありがたいかぎりです。次回もどうぞよろしく!

投稿: 齋藤 武夫