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実践的道徳教育のあり方について

開催日時 13:30 16:30
定員30名
会費1000円
場所 東京都羽村市コミュニティセンター JR羽村駅から徒歩10分

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実践的道徳教育のあり方ー教科化を迎えながら、従来通りのやり方では形骸化は変わらない。「どうすればいいのか?」を明らかにする

道徳教育は教科化されて、他教科への振り替えもする事なく、教科書もでき、評価も義務付けられたが、その本質は何か変わったでしょうか?以前から、道徳研究発表会で、もし生徒から「先生!そもそも道徳って何?何の為に勉強するの?その目的は?と訊かれたら、何と回答しますか?」と質問すると、ほとんどの先生が、沈黙か、回答があっても「人としての生き方、あり方を学ぶこと」「立派に生きること」などです。各人で異なるのも無理はないでしょう。定義が存在しないからです。正体が不明なままなのです。だから、授業では何をやればいいのか、見当も付かず、形骸化が叫ばれて来たのだと思います。正体が不明なものをどうやって教育するのでしょうか?
今後の道徳教育をちゃんとした効果のあるものにするため、基本的なことを原点から考えて見ませんか。項目は下記の通りです。
(要申し込み、先着順 〆切12日午後5時)

1 なぜ従来の道徳教育は、修身と同じになってしまうのか?
「徳目教育の限界」を明らかにする
2 なぜ形骸化が叫ばれながら、同科発足から六十年も過ぎたか?
3 道徳とは、何か?その本質を問う
それは、「善を追い求め、悪を斥けること」「善いことをして、悪いことをしないこと」か?その答えは「否!」である
4 道徳性とは何か?
「彼は高い道徳性を持った人間だ」や「彼の行為は道徳的に問題だ」と言う時、それはどんな人間であるのか?
5 道徳は、評価できるのか?仮に「評価できる」場合、評価する事は許されるのか?ー「他人の道徳性を評価する」事の途轍もない傲慢に気付かぬ陥穽ーその原因は、道徳の本質を明らかにしない「知的怠慢」による
6 道徳は、他教科の如く、知識を与えるものなのか?そして何処までなら教育することが、赦されるのか?(これを逸脱したものが修身教育である)(下記補足①参照)
7 なぜ他人(児童、生徒)に道徳性を求めることが不道徳なのか?ーそれを防ぐ手段はあるか?ー教師に求められる最低限の道徳的実践とは何か?ー「なぜ教師によるイジメが続発するのか?」、隠された人間性の負の本質に気付かぬ限り、それは終わらない(下記補足②参照)
8 「プロ意識」、「誇り」、「非認知能力」、「道徳」に共通するもの、それは何か?是非とも考えて見ませんか?全てが、日常、頻繁に聞くものでありながら、定義がされていないものばかりです。(これらは人間が主体的に生きて行く上で特に重要な意味を持つものであり、各語句ともほぼ同義のものと考えています)(下記補足③参照)
9 よく言われる「道徳教育の成果が出るのは、十年後、二十年後である」は正しいのか?ーそれは成果を出せぬ詭弁、明日から即、役立つ道徳教育の実践方法
(下記補足④参照)
10 子どもの疑問「なぜ道徳を学ぶの?道徳って何?」「なぜ勉強するの?学力って何、必要?」ー道徳と学力の相関関係を明らかにするーどちらか一方だけでは全うに生きられない(下記補足⑤参照)
11 その他
「いい先生とは何か?」勉強を教える上手な先生?\

以上のことについて、概要をお話しします。国の教育機関で公務員として勤務していた頃から、道徳問題に関心があり、十年来、研究して来ました。従来の道徳教育論では、「子どもの成長にとって、意味をなさない。子どもの記憶にさえ残らない」為に、もはや限界に来ていると感じ、「道徳の本質は何か?」を徹底的に研究して来ました。様々な論文を書いているので資料として配布したいと思います。全て独自に考えたものです。
「内容がよく分からない」方もいると思うので、下記は短くした補足説明です。
講師ー橋本唯隆 教育研究者 元国家公務員 国の教育機関で勤務したおり、道徳教育のあり方について疑問を持ち、研究活動を実施する。

補足①
「人に親切にする」などの各徳目を教育する事は、価値観教育ですが「何時でも、何処でも、誰にでも親切にする」事など、人間には可能なのでしょうか?「そうあるべきだ」とするから、形骸化するのです。「出来る訳ないじゃん」と。例えば、こんなケースを考えて見て下さい。通勤、通学途上、道端で気分悪そうに伏せている老人がいたらどうするか。手を差し延べる勇気を持つ事は大切ですし、多くの人が立ち止まるでしょう。しかしながら、大事な会議が有ったり受験だったりした場合、「ゴメンなさい」と通り過ぎることは赦されないでしょうか。でもそれが、赤の他人でなく、近所の人だったり、自分の肉親だったらどうでしょうか?通り過ぎることは赦されるでしょうか。どんな立場の場合、どんな状況下で、どこに「逃げていい時、いけない時」の一線を引くかは、正解がある訳でなく自分で考え自分で決めるしかないでしょう。それを他人(子ども)に、「人には親切にするものだ」と説く事は正しいことなのでしょうか。人への親切は、大なり小なり、自分の身を切ることです。極論すれば、「人の為だ」と言いながら、臓器提供を他人に勧める事のような気がするのです。自分のことは棚に上げ、人に徳目を説く独善の危険性です。価値観教育はそんな側面を有していることは認識されているでしょうか?では、どんな教育がいいのでしょうか。考えて見ませんか。

補足②
教師による児童生徒へのイジメ問題が新聞に載っていましたが、子ども同士のイジメより、こっちの方も深刻な問題です。この淵源は、職場のパワハラ、セクハラ、女性国会議員の秘書への絶叫事件、アオリ運転、気に食わない店員を怒鳴り散らし、土下座を要求する客、などと同根です。強い者には沈黙して阿るクセに、自分より弱い立場の相手なら、傲慢、不遜に振る舞う、状況次第、相手次第で自分の振る舞いを自分に都合よく変える人間の狡さです。人間はこの傲りの状態に陥ると怖いものなしになります。「厳しい指導」と「教師によるイジメ」との境界線はどこかについて具体化します。この境界線は、「やむを得ない最低限の体罰」と「単なる憂さ晴らしの暴力」とを分けるものと同一です。一緒に考えて見ましょう。

補足③
「小学生のプロ意識について考える」(概要)
突然「小学生のプロ意識」などと言うと、唐突な感じがします。しかしながら、人間社会は、様々な地位、立場にある人間のそれぞれの「これだけは、嫌でもやる一線」、「これだけは、手を出したくてもやらない一線」との自らの行動に一線を引き、自らを律するプロ意識によって、辛うじて支えられ、成り立っていることをまず、明らかにし、ならば、同じ社会の一員である子供にも子供なりのプロ意識が求められる筈であるとの前提で、考えるものです。項目を挙げれば、次の通りです。
1 プロ意識とは何か?なぜ社会で必要とされるのか?
2 小(中)学生の持つべきプロ意識とは何か?
3 なぜ、それが必要なのか?
4 どの様にしてプロ意識を持たせるか?
5 最高の教育は、身近な大人(親、先生等)の実践
6 備考(1) 「なぜこれをやるのか?」との目的意識の重要性(2)子供の自由や権利には、親でも立ち入るべきでない(3)①人は何の為に生きるか?」「②自分にとって幸福とはどんな事を言うのか?「③将来、必要なのは、学歴?学力?どっち?」「④勉強って、何のためにやるの?意味ある?」「⑤大人になって就職し、仕事をするに当たって必要な能力って、どんな能力?」
以下、各項目毎に要点のみを簡潔に述べます。
1 プロ意識とは何か?なぜ社会で必要とされるのか?
私達は、日常生活で、無意識のうちに「政治家のくせに・・」「親のくせに・・」などと批難したり、その逆に「さすが先輩!」「さすが社長だけのことはある」などと賞賛します。これらは、その立場にありながら「やるべきことをやる一線」や「やってはいけないことは、やらない一線」が守られない場合に、批難の言葉を浴びせられ、逆にその一線が守られた場合には、賞賛の言葉を掛けられることを示しています。「・・のくせに」や「さすが・・」は、その立場毎に守るべき一線が(法律や規則で定められていないが)暗黙のうちに存在することを意味しています。日常において、「安心して乗り物に乗り、安心して食品を食べ、安心して家電製品等を使っている」のは、その職業(運輸業、食品加工業、製造業)毎のその「守るべき一線は守られているはず」との信頼があるから、こその安心感であると考えます。それが「決められたことが、決められた通りになされている」との社会の秩序に繋がっているのです。
これは、家庭生活でも同じです。父親、母親の一線、夫婦間の一線が守られている家庭は、秩序が保たれ、そうで無い場合、即ち、「やりたいことだけやり、やるべきことからは、逃げる」場合は、破綻するのです。
よって、プロ意識とは、その地位、立場毎の人間が持つべき「これだけは逃げない」「これだけは手を出さない」とする自分の行動を律する一線の意識です。その意識を明確に持っている者が、社会の秩序を辛うじて支えているのです。また、現在、偉人として賞賛される昔の人物は、この行動の一線を明確に持っていた者と考えます(但し、偉人伝を安易に用いる不道徳を認知しておくことが必須条件ですが)。しかしながら、この意識を持っている人間は少なく、あるいは意識を持っていても、その一線を守ることが保身の感情等からできなくなる時に、テレビ等で報道される政治家や企業の不祥事、有名人のスキャンダル等に繋がるのです。彼らは特に「悪い人」という訳ではなく、誰でも自己の保身(臆病)、功名心(傲り)ゆえに一線を守れず、易きに流される可能性を持っているのです。だからこそ、この意識を小さい子供の頃から持ち、自分と葛藤するトレーニングが重要なのです。
2 小(中)学生の持つべきプロ意識とは何か?
「自分のやりたいことは、好きな様にやりたい。しかし、その前に、自分のやるべき事をやらないと、好きな事をやれる資格は与えられない。だからこそ、まず、自分のやるべき義務や責任とは何かを明確にして、それを親や先生、大人から言われる前に自分から、まずそれをやる。そして好きな事を堂々とやりたい。これが自分の自由や権利を主張し、守ることだと思う。すなわち、自分の自由や権利を守るには、まず自分の義務や責任を果たすことが必要なんだと思う。だから、自分のやるべきことを大人から『やりなさい!』と言われることは情けないし、恥ずかしい事だと思う。だからこそ、大人から『○○をやれ!』『○○はやったらダメ!』などと言われる前に、自分なりの『好きでも手を出さぬ一線』、『嫌でも逃げない一線』を持ちたい」という子ども自身の意識であり、「権利に優先する義務」という秩序感覚です。
3 なぜ、このプロ意識が必要なのか?
ゲームやスマホなど、子供は自分の好きなことは、好きなだけやりたがるが、宿題、後片付け、お手伝いなど、自分のやるべき事から何かと理由をつけて逃げようとするからです。これは子供だけの問題ではなく、大人でも同じです。人間は、皆、易きに流される危険性を持っているから、それをまず、自分で気付いて、それに備えるトレーニングを小さい頃からやる必要があるのです。
また、このプロ意識は、秩序感覚であり、「遊ぶ時は遊ぶ、やる時は歯をくいしばってやる」メリハリの感覚です。このメリハリの感覚は、生活にリズムをもたらします。リズムとは、静と動、弛緩と緊張、「気を抜いていい」時と「真剣にならないといけない」時との使い分けを自分の思い通りにコントロールする事です。これをやれる子供は、イジメや不登校などとは無縁な子供になります。そして更には、「自分はやるべきことをやって、やりたい事をやっている。だから、人からとやかく言われることはない。もし言われたら、自分の意見を主張したい」との自尊感情の醸成に繋がるのです。そして、まさにこれが「自分の頭で自分のあり方を考え、自己を律する」主体性と自律心の醸成に繋がるのです。
4 どの様にしてプロ意識を持たせるか?・・・
長いので、以下略

補足④
「実践的道徳教育の方法について」
別に難しいことではありません。どんな徳目でもいいのですが、例えば、「友達を大切にする」について、「友達とは自分にとって何なのか?」を考えさせる。「暇つぶしの相手」、「遊ぶ時の仲間」、「楽しいことも苦しいことを共にする同士」、「切磋琢磨する良きライバル」・・子どもから意見を出させ、色んな側面、定義の仕方があることを踏まえさせ、その定義の仕方で、その大切さが変わることを考えさせる。そして次に「信頼できる友達が欲しいか」と意見を聞いて、「欲しい」とする意見に対して、「誰にでもそう願う自由、権利がある。しかし、その前に自分が信頼できる人になる義務や責任がある。相手にだけ『信頼できる人であって欲しい』と願うのは狡いこと」と説明するのです。人間は「やりたいこと」だけやり、「やるべきこと」から逃げるからです。
題材は身近に無限にあります。(道徳教育用に作成した23章からなる教科書用原稿もあります。ご希望あればどうぞ)

補足⑤
目的意識を持つことが主体的に考え、生きることの根本ですが、子どもに「勉強しなさい」とは言っても、「なぜ勉強するか」を誰も説明していないことが大問題と考えます。そして次に大問題は、「社会に出て必要とされる能力とは何か」が明らかにされていないことです。それは簡単に言えば、何が大切かを見分ける本質把握能力です。これを小学校から身に付けさせることができるのです。勉強はいい学校に行く為のものではないのです。道徳教育論を中心にしてお話しするので、時間が無いかもしれませんが、時間が許す範囲でお話しします。

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