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(締め切りました)様々なやり方が模索される道徳教育及びアクティブラーニングの本質ー何が欠落?/問題解決型授業?ーその前に自分の学級や学校の問題言えますか?(改訂4)

開催日時 13:00 17:00
定員70名
会費0円
懇親会の定員20名
懇親会の会費4000円
場所 東京都福生市東京都福生市牛浜163 さくら会館

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道徳授業やアクティブラーニングに関する様々なやり方、実践理論がある中、一体、何がその本質なのかー「何が欠落しているのか?」ーなどなど一緒に考えてみませんか?

信じてもらえないかもしれませんが、道徳教育もアクティブラーニングも目指すところは同じです。「その根拠は何か?」等について、どうしても長くなりますが、極力、要点のみを説明します。ところで、最近、大学入試改革の事でどんな試験内容にするかを検討されていますが、それがハッキリしない根本は、後述する社会人になって要求される能力を定義できないからです。(なお、当日の日程は末尾 申し込みはこのページ末尾からどうぞ 席に限りあり。お早めに)

そこで、「主体的に生きる」とは、具体的にはどういうことか?それは「何の為に、これをやらねばならないのか?」という、何かをやる為の意義、目的、必要性を明らかにした上で、自らそれを納得して「だから自分はこれをシッカリやろう」と自ら意欲的に行動することである。アクティブラーニングとは「主体的に学ぶこと」である。だから、「何の為に自分は勉強するのか?」その意義、目的、必要性を明らかにして納得した上で、「だから人から言われて勉強するなんてダメ、自分からやる」と目的意識を持って勉強することである。道徳も同様に、「何の為に自分は生きるのか?何の為に命は大切にせねばならないのか?」その意義、目的を明確にして、納得して「だから、自分は目的意識を持って、シッカリ生きよう」と日々の生活に取り組むことである。現状ではこの最も重要な「目的意識を持たせる」ことに対して、工夫されているか?欠落していないか?
人間にとって、最も重要なことは、様々な対象や事象に対して「何が最も大切なのか?」を見極める目、能力である。それよって「重要なものと、どうでもいいもの」「優先すべきものと、後回しでいいもの」「逃げていいものと、決して逃げてはいけないもの」とを峻別可能になるのである。道徳教育もアクティブラーニングも突き詰めれば、「何が大切か?」見極める能力を付けることである。具体的には、対象、事象の本質を見極め、「これ(*注)はそもそも何なのか?」「何の為にする(ある)のか?」「どうやればいいのか?」の三点である。換言すれば、「実態の把握」「目的の明確化」「具体的方法論の探究」である。
(*注);「これ」が、無限に変化するのである。人生、命、理科、光合成、分数、つるかめ算・・
ところで、先生の役目で一番大切な物は何か? 先生の使命と言ってもいいかも知れない。「勉強を教えること」と思う先生もいると思う。しかしながら、それは違うと考える。それは数ある役目のひとつだが、一番ではない。それは「子供の心に火を点ける」ことだと私は考える。生きる意欲を芽生えさせる、でもいい。「僕もやる!」である。
人生を、人間を、命のはかなさ、大切さを語らねばならない。例えば、こんな話しは如何か?
「皆んな、誰でも、努力したけど無駄になると落ち込むし、失敗すると何もしたくなくなるよね。だから努力や挑戦する事に臆病になって、『どうせやったってムダ』と諦め、何もしないでいる。だけど、隣で何かに必死に努力する友だちがいると、置いてけぼりになる怖さから、『そんなのムダに決まってる』と人の努力をバカにし、足を引っ張り、引きずり降ろそうとする。こんな狡い人間は、努力も挑戦もしないから、辛いこと苦しいことを経験することもないだろう。だけど、『ヤッタア!』という感動も達成感もないんだ。折角生まれて来たんだよ。それで後悔しないか。この世の中に法則がある。『何かを為そうとして、自分で考え、自分から動かなければ現実は決して何も変わらない』ということだよ。主体性と言ってもいい。それは自分の見定めた目標に挑戦し、努力することだ。それは失敗を恐れる自分の中の臆病と戦うことでもある。辛いこともある、泣きたい時もある。だけどそれは、感動の大きさを倍増させる前触れだ。辛さの度合いは、感動の度合いに比例する。『コレ僕がやったんだよ!』と胸を張れる何かを成し遂げること、挑戦が感動を生む。人間の生きる目的は感動することだと先生は信じている。小さな挑戦から始めたらいい。先生の挑戦の話しをしようか・・・・」と。

以上が結論的内容です。以下は、道徳教育とアクティブラーニングについて、やや細部にまで探究します。

そこで、簡単な質問をします。「小学校から大学までに要求される能力と社会人になってから要求される能力とは、同じか否か?」と質問されて、即答できる人は、日常から問題意識を持っている人です。これは、十年程前に某国立大四年生約百人に質問した内容です。回答はなく、沈黙でしたが、こちらから回答した内容は、「同じではない」であり、その理由は、前者は、「答えを探す能力」が問われ、後者は「問題を探す能力」が問われる。更には「なぜそれが問題か?その問題たる根拠を説明する能力、更に当該問題の解決策を提示し、それが解決策足り得る根拠を説明する能力が問われる」というものでした。
 どちらが、高度で困難な能力かは明らかです。
 世の中には二種類の人間がいると考えています。それは「人から言われたこと、決められたこと、マニアルにあること、昔からやって来たこと、他の皆がやっていること」しかできない人、そして、それとはまったく逆に、前例等に関係なく「今、何が問題か?なぜ今までのやり方でいいのか?」と、自分の頭で考える人の二種類です。前者は、現状に疑問を持たず、何をすればいいのか、答えが無いと動けない人であり、いつも人に「どうしたらいいか?」を尋ね、失敗すると「あの人からそうやれと言われたから」と他人のせいにし、自分の責任に向き合おうとしない人間であり、後者は、常に現状を疑い、問題を探せて、「自分はこう考える。だからこうやりたい。その根拠は・・」と常に自分の意志と考えを持って、新たなやり方を模索できる人間です。前者の人間が多くなる中、後者の人間こそ、「主体的に仕事をする社会人」なのであり、望まれる「自分の頭で考える」社会人なのです。これが教育の目指す人間像でしょう。
問題はそれを学校教育の中で「どう具体化するのか?」ということです。その為にはまず先生が「主体的な先生」であることです。現状の学校教育に関して、どのように主体的考え、問題意識を持っておられるか、後ほど質問させて頂きます。
 
道徳授業では、「問題解決的な学習」が、花盛りです。ところで、「問題解決的」という以上、その問題は、道徳上の「どんな問題か?」明確にされているでしょうか?それが明確にされていなければ、決して、「問題解決策」など見つかるはずは絶対にありません。「道徳とは、そもそも何か?」の定義付けが不明確な上に、「道徳的問題」なるものは益々、不明であり、ましてやその「解決策」などあり得ないと考えます。それを問題に感じないのはもっと、「問題」と感じます。どうやって授業ができるのでしょうか?
そもそも問題とは何か?それは「理想と現実の差」であると昔、誰かが言いました。大切なことは、その先です。何を「理想」として捉え、何を「現実」と捉えるかです。これはどこにも答えは準備されていません。自分で考えるしかありません。ある事象を見て、「これって問題じゃないか?」と感じる為には、まず「何が、どうあるべきか?」と考える土台が必要です。 
例を挙げます。自分が住む家庭について、「うちは問題があるか否か?まともか、普通か、それとも異常か?」を考えるに際して、何が必要でしょうか?「家庭とは何を以て家庭か?家庭が家庭であるための本質は何か?何があれば家庭と呼べて、何がなければそう呼べないのか?」の「あるべき家庭とは?」の考え無くして、自分の住む家庭の問題点は出て来ないのです。即ち、「あるべき家庭」と「現実の家庭」との差こそ、今の自分の家庭の抱える問題であるということになります。例えば、「うちの家庭には、会話も笑顔も思いやりもないことが問題だ」となるのです。これはあらゆることに共通します。
 「問題」を見つけるには、「あるべき理想」を描く能力が必須です。それは「○○とは何か?その何が最も大切か?」を見究める本質把握能力です。「友情とは?」「思いやりとは?」「先輩とは?」「上司とは?」「管理職とは?」「営業とは?」「会社経営とは?」「外交とは?」「安全保障とは?」「政治とは?」など、それは無限に広がるのです。「できる営業マン」は、「営業で一番大事なことは?」と訊かれれば、即座に答えるでしょう。「凄腕経営者」と呼ばれる人も「経営のポイントは?」と訊かれれば、同様でしょう。その能力は、長い論文を一読したり、難解な法律条文を読んで、「一言でいうと、こんなこと言っているんだな」と要点を把握する能力でもあります。 それは「何が大切か?」を常に考える能力です。(ところで、子どもに「問題解決型授業」をさせる以上、自分のクラスの問題や学校の問題は何か、言えますか?気分悪くされるかもしれませんが、これが「何が大切なことなのか?」を常に考える事だと思います)
 
現行道徳教育は、徳目教育を中心に行われていますが、「やさしさ、思いやり」などの徳目は、「人としてのあり方」を考えさせるために、有効かつ必要だと感じます。それは、言うなれば、「あるべき理想」、「あるべき自分」を教育することです。しかしながら、それが有効なのは、小学校中学年あたりまででしょう。人間が、判断し、行動し、自己を律するに当たり、最も厄介な存在は「やりたいことのみやり、やるべきことからは逃げる」損得利不利でしか動かない、暴走する「現実の自分」の存在を忘れている気がします。この存在を直視させねば綺麗事に終ります。だから高学年以上の児童、生徒は退屈します。中学校では、先生自身が生徒に対 して道徳授業をやること自体が「綺麗ごとばかりを言う自分に耐えられない」との、道徳的煩悶があるのではないかと推測します。だから「他の授業への振り替え」があるのではないでしょうか。繰り返される企業不祥事、汚職、イジメなど、その本質は、「現実の自分」に翻弄され、凌駕された結果だと感じます。寧ろ、そんな弱くて、狡い「現実の自分」の存在に気付きさえしていないはずです。 
この「現実の自分」の弱さや狡さを人間自身が気付くことが如何に重要であり、かつ困難であるかを知ることから始めねばならないでしょう。大人さえ気付いていないはずです。そして「あるべき自分」についても、「決まった徳目を決まった様に実践すればいい」様なことは現実的ではないでしょう。実際の場面では、「やさしさ、思いやり」ひとつを取っても、「何時でも、何処でも、誰にでも、優しく接する」ことは元々、不可能です。ですが、自分が置かれた状況、立場、相手との関係次第では、自分に危険が降りかかっても、敢えて身を挺して、「やさしさ、思いやり」を持たねばならない時があるはずです。すなわち、「こんな時は逃げても構わ ないだろう。だが、こんな場合にだけは決して逃げてはいけない」一線があります。あるいは「こんな時は優しくあるべきだが、こんな場面では、寧ろ厳しく接するべきだ」などです。「あるべき自分」というものは、いつも決まった徳目どおりの「あるべき自分」がある訳でなく、その都度、自分の頭で考えるしかないのです。その思考の基本中の基本が、「今、何が一番大切か?自分は何を最優先すべきか?」の本質追究思考です。これが「主体的に物事を考える」主体性の発揮そのものです。そして自分が、主体的に動くためには、物事の本質を見抜かねば行動の優先順位を間違うことになるため、自分の身近な対象、事象、現象の本質把握が必要となります。 
具体的には、それらは、「思いやりとは何か?いつも人に優しくすることか?」「友情とは何か?友は必要か不要か?」「信頼とは何か?」「学校って何だろう?小(中)学生とは何だろう?どんな義務や権利があるんだろう?」「勉強とは何だろう?それは義務なのか権利なのか?」などなど、年齢に応じて様々な対象、事象を考える必要が生じて来ます。
(例えば、「友情って大事だよね」とほとんどの若者が答えるでしょうが、ではその説明ができるか?「友達って何?」なら「困った時に相談に助けてくれる人」との回答ができるでしょうが、「友情って何?」となると「はて?あらためて訊かれると・・・?」となるのです。浅い言葉の理解は、浅い思考しかできないので、より掘り下げた思考が必要となるのです。すなわち、深い思考は言語能力と密接に関係しています。更に言えば、本質的思考は言語能力の程度に比例すると言っても過言ではないと考えます)
だから、道徳教育には、物事の「何が一番大切か」を見抜く本質把握能力が、必要となるのです。
(因みに、道徳とは、ごく簡単に言えば「あるべき自分」を見定め、「現実の自分」の弱さ、狡さに気付きながら、その差を縮めようとする葛藤と考えています。自分の弱さや狡さを知ればこそ、「より強く、より良く生きる」ことが可能であると考えるからです。そして、この自分の弱さ、狡さに気付き、それを律すること、それが自律なのですが、これを説明すると益々長くなるので、結論的な事を簡単に言えば、弱さ、狡さは「逃げちゃいけない時に逃げる自分」であり、「溺れちゃいけないのに溺れ、浸る自分」です。「小(中)学生だから、嫌でもやるべきことの一線、好きでもやっちゃいけないことの一線」の存在を学校入学当初から、子供達に厳しい態度で示しておくべきです。一部の保育園で実践している「年長さんだから、やるべきこと、ダメなこと、年少さんだから、やるべきこと、ダメなこと」などと同じです。「好きなことをやれる、権利や自由」の為には、その立場ゆえの「義務や責任がある」ことを伝えるのです。5、6歳の園児でも、自分の行動を見事に律するのです。低学年から、この一線を親と一緒に教育し、実践させれば、ネット、スマホ、ゲーム、イジメ加害行為等の依存行為は克服可能です。先日のニュースでは、「五体不満足」の著者の不倫報道がありましたが、彼も有名になり立てのころは、障害者行政にも真剣かつ真摯に取り組んでいた筈です。しかし、有名になり、周囲にチヤホヤされると傲り、慢心が生じて、「調子に乗る自分」に気付かなくなるのです。それで自分の名誉を葬ったのです。飲酒暴走ひき逃げする若者が多いのも根は同じです。如何にこの「現実の自分」に気付く道徳教育が高学年から重要であるかを痛感するものです。人間は簡単に「溺れて道を踏み外す」怖さを気付かせないといけないのです。簡単に一生を棒に振ります。褒めてばかりの教育は、益々子どもをダメにします)

さて、次にアクティブラーニング(以下、ALとする)について、述べます。
「大学生数学基本調査報告書」(2013 年 一般社団法人 日本数学会 教育委員会 実施)なるものがあります。約六千人の国立、私立大の学生を対象にしたものです。その第一問は、小学生でもできる平均の問題です。下記をまず、ご覧ください。(http://mathsoc.jp/publication/tushin/1801/chousa-houkoku.pdf)
報告書にあるとおり、1/4の学生が理解していなかったのですが、これが何を意味するか、ご理解されると思いますが、大学に行かない若者も含めた全体で考えれば、概ね半分以上の同年代の若者が、「平均の概念」を理解していないと考えて差支えないと考えます。ほとんどの若者は、計算はできるだろうし、訊かれれば「全部足して、個数で割ったもの」と計算手法を回答できるはずです。しかし、「そもそも平均とは何か?」その本質を理解していないことの証左であると考えます。計算ができれば、「平均を理解している」ことになっているようです。学力テストの「A問題は出来るが、B問題になると出来ない」理由が、ここに隠されている気が します。
私が考える学校教育における「自分の頭で考える地頭力」の必要性を感じた発端は、ここにありました。「計算ができればよし、問題が解ければよし」との私も受けて来た従来の義務教育の弊害が出ているように感じます。そういう意味でALの多種多様なやり方、手法が各地で議論、検討されていることは、極めて意義のあることと感じます。今までのやり方の何が問題で、今後どうあるべきかを徹底的に議論すべきと感じます。
ところで、ALで最も重要なことは、何でしょうか?まさにALの本質です。何だとお考えでしょうか?ALの定義を「主体的に学ぶこと」とすれば、最も重要なことは、「なぜ自分はこれ(勉強)をやらねばならないのか?その目的、理由は何か?」の目的意識であり、動機づけです。実態はどうでしょうか?全く、文科省はじめ、どこも実施していないはずです。確かに理由付けは困難な部分があります。しかしながら、仕事でも「なんで。こんなことやるのか?」と疑問に思うことがあります。その時、できる上司は、目的、理由、必要性を説明してくれます。ダメな上司は、「昔からやることになっている」「どこでもやっている」と言います。現状 はほとんど後者に近いのではないでしょうか。「なぜ、勉強するの?」「なぜ国、算、社、理なんかやるの?何かいいことあるの?」 ネットや文献等を調べて見ると、どこにも回答らしきものは無いようです。これについて、勉強会でお話しします。結論だけ述べておきます。以降省略

当日の日程
1300~「道徳教育のあり方」について

 道徳とは何か?―やりたいことやるには、やるべきことをやる、他/道徳性、道  徳的実践とは具体的に何か?/「現行道徳教育は修身と同じか否か?それは特定の価値観を押し付けるものか?」を明確にする/親や教師が行う道徳的実践について/なぜ道徳教育は教育の根幹なのか?その根拠を明らかにする/子供に対する日常の道徳教育のあり方/その他「マナー、エチケットは重要である」と言われる。それは道徳か?それは他人の目を気にすることであり、道徳は自分の目を気にする主体性、自律心の発露
     
1520~ALのあり方について
ALの核心―何の為に勉強するのか?「勉強した方がいいのか?しなくてもいいのか?それともしなければいけないのか?」それを明らかにする/「知っている」と「分かる」との違いを明らかにする/掛け算、わり算、小数、分数を用いた「何が大切かを見抜く力」の実践的育成方法ー例えば、「あーそうか、分数ってこういう事なんだ」との概念理解を具体的に子どもにさせ、「そうか、だから分数分かるとこんなに便利、知らないとこんなに不便なんだ」との学ぶ目的、必要性を感じさせることを重視します。そして、「分数が分かった」とは、どういう事が分かった事かを自分で説明できる様にしたり、自分で問題を作り、回答し「何を問う問題か」「なぜこの回答の仕方でいいのか」説明させるのです。そして自己診断できるようするのです。すなわち、自分がどこまで分かっているかを自分で分かるようにするのです。これで分数なるものの本質を理解したことになります。説明できない子は、「自分だけ説明できないのは嫌だ」と感じ、分かるまで食らいついて来ます。これがアクティブラーニングの本質です。 これで分数なるものを理解することになります。イチイチ先生は問題を作ってテストしなくても、分かっている子、いない子は一目瞭然となります。これ凄くないですか?


1700頃時間あれば、質疑応答

駐車場たくさんあります(無料)ー東京方面から国道16号第5ゲート前左折してすぐ左手にあり。横田基地となりです。

追伸;新聞に、元巨人軍の長嶋さんのリハビリの記事がありました。長嶋さんは、現役時代は黙々と夜な夜なバットを振る姿を人には絶対に見せなかったそうです。そしていま、辛いリハビリに励む姿は見せるそうです。これが道徳的実践だと思います。現役時代のカッコイイ姿は、誰もが人に見せたいと願うものであり、「自分をよく見せたい」と思う人間の慢心、傲りです。そして、リハビリのカッコワルイ姿は、誰もが人に見せたくないと願うものであり、「ダメな自分を見せたくない」と思う人間の臆病さ、弱さです。現役時代に練習姿を見せることが、自分の慢心、傲りに浸ることだと感じ、人には見せなかったのだと思います。そして今、リハビリの姿を見せるのは、「同じ境遇で苦しむ人達の力になればいい」と長嶋さんは、言っています。自分の臆病さと弱さと戦い、敢えてカッコワルイ姿を見せて、弱さを克服しているんだと思います。人間の本当のカッコイイ姿を見せてもらった気がします。「相手が誰であろうと言うべきことを言おう」と「あるべき自分」を願うのですが、「現実の自分」は、強い者には、臆病で何も言えないことがあり、そして相手が弱い人間と見るや、居丈高となり、傲慢になることがあります。人間にとって、自分の傲慢と臆病さと戦うことは永遠の課題だと思います。

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